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通りすがりのロボットウォッチャー ロボットはカワイイおバカで世に出よう
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Reported by
米田 裕
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今から10年以上も昔。20世紀も終わろうとしている時代、テレビに映し出された1匹のペンギンに目が釘付けとなった。
そのペンギンは、南極やガラパゴス諸島や、動物園に居るのではない。なんと、リュックを背負って日本の街中の道を歩いていたのだ。
皇帝ペンギン(後で王様ペンギンだとわかるが)が、リュックを背負って道をトボトボと歩いている。向かった先は魚屋さんだ。
魚屋のおばさんは、店の前にきたペンギンを見つけると、呼びかけて店内へと招き入れ、リュックの中から財布を出してお金をとって、おつりと魚をリュックへと入れる。
そして、ペンギンには駄賃として魚をまるまる一匹食べさせるのだ。
ペンギンは魚を食べると満足したように、またトボトボと自宅へ向かって歩いていく。
チャンネルをザッピング中にたまたま見た映像なので、くわしいことはまったくわからない。
なぜ日本でペンギンがおつかいをしているのだ? ペンギンの数奇な運命とトボトボ歩く姿にわしのハートはわしづかみ状態となった(笑)。
今と違ってインターネットも発達していない状態だし、常時接続はまだまだ夢の時代のことだった。
すぐさまネットで情報を探しても何も見つからなかった。
それから幾星霜。今の時点でインターネット検索をしたら、長年の疑問が氷解した。
ペンギンの名前は「ララ」。14歳の王様ペンギンで、遠洋漁業で操業中に、網にかかったのを助けたとか、南極観測隊の隊員が助けたなど諸説があるが、そこらへんの事情はどうあれ、日本の鹿児島県志布志町のご家庭で飼われていたのだ。
テレビで見たのは、その飼われている家から400メートルほど離れた魚屋さんへ(歩いて30分かかる距離という説もあり)買い物へ行く姿だったのだ。
現在ネットに残っているソースは、海外で紹介された映像で、日本のテレビのものは残ってない。
日本のテレビでは地元ローカル局など、さまざまな番組でとりあげられたらしい。
ペンギンは直立して二足歩行するので、やけに人っぽいし、リュックを背負った姿がかなりかわいかった。そして、近所の人々も、お使いペンギンを知っているようで、道に水をまいたり、水飲み場があったり、自動車はゆっくりと脇を走ったりしていた。
残念なことに、平成8年11月に亡くなったということである。悲しいなぁ。
● 動物にロボットは追いついたのか?
ところで、ペンギンの知能というのはどれぐらいなのだろうか?
調べてみたがわからない。カラスよりは賢くないというのが定説のようだが、そのカラスはチンパンジーなみの知能を持っている可能性があるという。
これじゃ、まったくわからん。
しかし、「ララ」はリュックを背負わされると、魚屋さんへと行くことを覚えているわけだし、その道も覚えている。そして、魚屋さんではエサをもらえることも知っているわけだ。名前を呼ばれれば反応するし、「バイバイ」と言われると頭を振ってから帰途につく。
なにがしかの知的行動があるように見えるが、証明をする術がないので、知能はわからない。もし学者が見識を述べるとするなら、証明できないものは存在しているといえないので、ペンギンに知性はないと言うだろうか?
人間なら2歳ぐらいで同じことができるのかね? かといって、2歳児なみの知能ともいえないのが歯がゆいところだ。
ペンギンの話で脱線しつづけてしまったが、ロボットの知能は、実用化の第一歩として、どこまでのレベルであればいいかということを考えているときに「ララ」のことを思い出したのだ。
ロボットの実用化へ向けて、認識、判断、処理のアルゴリズムなど、自律して動ける知能の開発が急務だ。
しかし、それらがうまく進んでいると思えないのが現状だと思う。
こうなると、実用化を急ぐには、ロボットより順応性が高く、知能もある人間に手助けしてもらう手もあるのではないかと思ってしまう。
ロボットが買い物へ行き、買う物を手にとって、金額を払う。そして帰ってくるということはまだまだハードルが高そうだ。
今の技術が進歩すれば自律行動や高度な思考が可能になると信じて開発が続けられているが、何年かかるかわからない。
● ロボットよ「カワイイ」を目指せ
こうなれば「ララちゃん」方式で、地域連動型でどうにかならないかと考えたくなる。
ロボット自体は二足歩行でも、倒立振子タイプでも、車輪型でもなんでもいいが、目的の店へとたどりつけることが必要だ。
これなんかは、カーナビ、GPS技術とか、道路や街に電子タグを仕込んだりしてとかで実現できそうだ。
買う物を自分で選ぶよりも、店の人にメモだの、ディスプレイに表示して見せたり、高度にはなるが言葉で頼んでしまった方が早い。
そして、支払いはプリペイド型の電子マネーとか、ネットを使った電子決済とかで支払ってしまう。
袋に入れた品物を鞄に入れてもらったり、収納部分へ入れてもらったりして、帰ってくるというのが、手っ取り早くロボットを街中で使う手段だろう。
このときに大事なのは、ロボットの機能よりも、見た目と仕草になると思う。
つまり「カワイイ」こと、そして「けなげ」というキーワードで開発をしていくといいと思える。
ペンギンのララちゃんは、見ているだけでもカワイイし、その姿はけなげだ。人間側が何かをしてあげたくなる。
人が何かをしてあげたくなるロボット。これを作れるかでロボットが街中へ普及していくかどうかの分かれ道となりそうだ。
ロボットは人を助ける物という考えで開発していると、あれもこれもクリアしないととハードルが高くなっていく。
いつまで経ってもロボットが普及しない。機能性の追求でごついロボットとなってしまう。コワイから近くにこないで欲しいという負のスパイラルに陥りそうだ。
とにかくカワイイロボットを作る。何もできなくても側に居て欲しい。それが買い物までしてくれるとなれば、とーってもキュートだ。買い物先の店の人の心をも動かすことができれば、ロボットがこの世にいる場所ができるだろう。
● 未知の知能は推し量れるか
動物に知能があるかどうかを証明するのはむずかしい。証明できないものは「ない」と考えるのが、現代の科学観だ。
ロボットに知能があるかどうかの判断も、同じようにむずかしい。しかし、かなり昔から人工知能に知能があると認定する考え方「チューリング・テスト」というものがある。
これはアラン・チューリングという英国の数学者が1950年に発表した論文「計算機構と知能」で提唱されたものだ。
2台のディスプレイの前に人間ががいて、どちらのディスプレイもその出力元は隠されている。
そのディスプレイに向かって人間が質問をしたりと、テストをする。
1台は人間が答え、もう1台には人間をまねるように作られたコンピューターの答えが出てくる。
テストをする人は、機械か人間かを見分けるためにどんな質問をしてもよいとされる。人間の得手不得手、コンピューターの得手不得手を考えながらテスト項目を考えるわけだ。
このときに、コンピューターは人間を真似てスペルミスをしたり、計算を間違えたりもするので間違えている方が人間ともいえない。
こうして、テストをしている側が人間とコンピューターの区別がつかなければ、コンピューターには知能があるとするにやぶさかではないと考えるというものだ。
それは本当に知能かという疑問も起きる。さっそく哲学者のジョン・サールが「中国語の部屋」という思考実験で反論している。
かいつまんで言うと、英語圏の人間が、全くわからない言語「中国語」の形だけに対応したマニュアルがあり、ある形にはこの形で対応させるということしかわからない状態で部屋にいるとする。
部屋にいる英語圏人に、外部から記号か絵といった不思議な形の羅列が外部から入ってきて、それに対してマニュアルにそって対応する記号か絵の羅列を外へと返す。
結果的には、部屋の中の英語圏人はわけもわからずに「中国語」の会話をしているように外部から見えるといった内容だ。
だから人間をだませても知能はないんでないかい? という結論となる。
これにはまた反論があり、「ない」ということを証明する方が、「ある」を証明することよりもむずかしいので、「ない」ということはないんでないかいという。
まぁ、こうした議論はロボットをとりまく環境のなかでさかんに議論されているけど、実用化に直接むすびつくかどうかはわからない。思うように動いてくれればいいという考え方もあるわけだし。
ロボットの知能を考えると、自律部分から作り込まないといけなそうなので、手間がかかりそうだ。
動物であれば「本能」という部分で、教え込む必要のないことがある。
ペンギンのララちゃんでいえば、自分がどこに居るかわかってるとしか思えない行動をするし、道を歩くときには物にぶつからないようにする。
名前を呼ばれれば反応するし、道ばたに水の入った樽を見つければ水を飲む。それが生きていくことに必要なものということなのか、自然に覚えているのだ。
ロボットとなると、二足歩行をさせるだけでも、自分の重心位置、脚の出し方、地面の凹凸の検知など、さまざまな要素をセンサーで検出して対応していくプログラムが必要となる。
そのうえで、音声認識だの、身振りといった動作のプログラムが上乗せされていくわけだ。
これら全てを予想し、対応したプログラムを書くのは無理かもしれない。
となると、ロボットは最低限できることに専念して、あとは人間に助けてもらうことにしちゃった方がいい。
人間の方が感情移入能力もあるし、順応も早い。ロボットに対してもそれらが発揮されるだろう。
● ロボットの心は人間の側にある
小松左京さん監修で、瀬名秀明さん編者の『サイエンス・イマジネーション』(NTT出版)は、2007年に横浜で行なわれた日本初の世界SF大会「Nippon2007」会場でのロボット研究者とSF作家によるシンポジウムをベースとして、討論に参加した日本SF作家による短編・エッセイを加えてまとめた本であるが、そのなかに「サイエンスとサイエンスフィクションの最前線、そして未来へ!」のパネルディスカッションの記録がある。
ロボット研究者とSF作家による討論だが、そのなかで、公立はこだて未来大学の松原仁さんによると「チューリングテストをパスした人工知能はすでにたくさんある」ことや、作家の円上塔さんが「お年寄りの家庭ではAIBOはチューリングテストをパスしている」といった旨の発言をしている。
お年寄りはAIBOのことを知能があり、自分を慕ってくれるモノとしてとらえているということだ。
AIBOには本能、感情、学習、成長といったモデルがプログラムとして提供されていた。それがどのようなレベルなのかはわからないが、ある人々には動物と変わらないレベルであると思わせたということだ。
松原さんによると、チューリングテストに合格していても知能があるとは思えない。それほど知能は単純ではないといことらしい。
となると、AIBOがチューリングテストに合格しているということは、ロボットがすごいというよりも、慣れて順応してしまう人間の方がすごいということか?
こうしたときに、ロボットはヘタに話さない方がいいのかもしれない。人間が犬や猫と話をしていると思い込むように、ロボットも一定の反応があれば、心が通じていると考えられるだろう。
そして、人は何かをしてもらう場合より、何かをしてあげる時の方が幸福感を感じるのではないだろうか?
末期ガンの患者さんでも、見舞客があり、自分が動けるのなら、お茶を入れたり、お菓子を出したりするという。ガンで亡くなった僕の友人は、死の3日前でも、見舞いに行った僕たち友人にお茶を淹れてくれた。
なので、亡くなったと聞いたときには信じられなかったものだ。見舞い後、意識がなくなり昏睡状態となり、帰らぬ人となったそうだ。
産総研開発の「パロ」が人を癒せるのは、パロが動くことができずに、外界の刺激に反応するだけという部分に鍵がありそうだ。
老人になっても病人になっても、人は他人に何かをしたいと思っている。それを実現させてくれるのがパロなので、病人が元気になっていったり、老人が癒されたりするのではないだろうか。
こうなると、やはりロボット実用化の早道は、面倒見られ型で世に出ることだろうか。
基本動作や他人を傷つけない配慮や安全機構は最低限必要だが、会話能力とか、行動能力は逆に完璧にできない方がいいように思える。ただ、どのようにでもとれる曖昧な反応は必要だと思うけどね。
行動パターンや知能実装はそれぐらいにして、あとは外見や仕草をどのようにカワイイ、そしてけなげなものにしていくかだな。
たぶんアニメ女性キャラとかのカワイイとは違うカワイイが求められるだろう。いまんとこロボットでカワイイと思うのはNECの「PaPeRo」なんかが近いと思う。
現在のものでなく、まだ研究段階のPaPeRoはノーテンキでカワイイ存在だった。その後の実用化へ向けての機能アップで、少し「カワイイ」が減ってしまったのが残念だ。
カワイイのと「おバカ」か「おマヌケ」的要素は人に親近感と安心感を与えてくれる。今の時代は「おバカ」キャラにも人気が集まっているし。
リュックをしょってトボトボ歩き
お金のことはわからず取ってもらい
かまってもらえないといじけ
ときにはほんの少し役に立ち
いつもニコニコとしている
さふいうロボットに私は会いたい
ところで大阪大学のCB2はどないなりましたんやろ。わて現状が知りたいねんわ。
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米田 裕(よねだ ゆたか)
イラストライター。'57年川崎市生。'82年、小松左京総監督映画『さよならジュピター』にかかわったのをきっかけにSFイラストレーターとなる。その後ライター、編集業も兼務し、ROBODEX2000、2002オフィシャルガイドブックにも執筆。現在は専門学校講師も務める。日本SF作家クラブ会員
2008/12/26 15:41
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