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大阪市立科学館「学天則シンポジウム」レポート
~1930年代のロボット動画など貴重な資料も公開


 2008年12月23日(火)、大阪市立科学館において、学天則シンポジウムが開催された。

 同館は昨年7月、9年振りに展示リニューアルオープンした。その際、展示物の目玉として80年前に大阪で製作された東洋初のロボット「学天則」を動態復元した。今回のシンポジウムでは、復元のエピソードと共に、学天則の製作者である西村真琴の功績や人柄、学天則が公開された当時の時代背景などを紹介した。


大阪市立科学館 【動画】大阪市立科学館で動態復元した「学天則」。毎時00分に動き始める

西村真琴~全ての生物を等しく愛し続けた博物学者

 最初に、児童文学の創作と研究を専門とする畑中圭一氏が、西村真琴の多才な側面を紹介した。畑中氏は、豊田次男という童謡詩人を調べている時に「保育」という雑誌を見つけ、それが西村真琴に興味を持つきっかけになった。昨年、「地球は人間だけのものではない~エコロジスト西村真琴の生涯」を出版した。


畑中圭一氏 「地球は人間だけのものではない~エコロジスト西村真琴の生涯」(畑中圭一/ゆいぽおと)

 畑中氏は、「西村真琴には科学者という面だけではなく、大きく分類して4つの側面がある」という。

 1つ目は、学天則制作や阿寒湖のマリモ研究で知られる科学者の面、2つ目はそれに付随した教育者の面、3つ目は大阪毎日新聞の社会事業団を通じ社会事業に積極的に参加した事業家の面。最後に個人として詩・短歌、童謡などを発表する文学者でもあり、陶芸家としての芸術家の面を持っていたという。畑中氏は、そんな西村真琴を「怪人20面相ではないが、いくつもの顔を持った不思議な人だと思う」と述べ講演を始めた。


西村真琴の4つの側面 西村真琴の経歴

 「西村真琴は幅の広い博物学者であった」と畑中氏はいう。博物学というのは、動植物や鉱物などを体系的に研究していく学問だ。西村真琴が残した著作を見ると、主として植物学、そして動物学が加わり、鉱物学にも明るい学者であることが分かるそうだ。

 1927年に、学位論文「毬藻及びプレスマの研究」で、東京大学から理学博士の学位を授与されたように、西村真琴にとっては水生植物、水産生物学が一番中心の学問だった。

 しかし満州に滞在していた頃には、満州の各地を歩き回り約2,000種の植物標本を作った。その他に爬虫類の標本を作り、アメリカに留学する時に持っていき、これがニューヨークの自然博物館でアルバイトするきっかけを作った。博物館では資料として絵を描いたり、剥製を作ったりしていたようだ。

 アメリカ留学中に、コロンビア大学で修士号と博士号を取得している。ここでは植物学を専攻科で学んだと言われている。例えば、西村真琴が後に「保育」という雑誌を月刊で出した時「親子理科」という科学読み物を連載している。そこで扱う素材は、植物よりは昆虫や蜘蛛、鳥、ムササビなど小動物が多かったという。「そのことからも動物学にもかなりの知識を持っていたと思う」と畑中氏はいう。

 「親子理科」は、今読み返しても子どもに科学を親しませる文章だという。例えば、ミノムシのミノを切り、中のムシが毛糸のくずでミノを作るという実験を紹介している。親子で実験し観察し理解していく内容で、非常に分かりやすい。この連載の挿絵も、絵の才能を活かし西村真琴が描いていたそうだ。

 西村真琴が目指した1つの領域として、自然科学と大衆を結びつける科学ジャーナリストが上げられる。西村真琴は、さまざまなところにエッセイや論文、子ども向けの科学読み物を書いた。気楽に読めるものから、専門ジャンルまで私家版を含め13冊の著書を残している。

 また、1951年に文部省が行なった、第1回幻燈シナリオコンクールに「蛙の観察」というスライドを出品し、最優秀作品に選ばれた。そのしばらく後には、「阿寒湖のまりも」というドキュメンタリー映画を作り、高い評価を得ている。こうした西村真琴の映像作家の側面は、あまり知られていないだろうと紹介した。このように専門の植物学だけではなく、動物についても研究している側面があった。「従って、彼の核にあるのは“博物学者”だ」と畑中氏は考えているそうだ。そして、東洋初のロボット「学天則」の製作者でもある。このように、科学者という側面だけを見ても、幅広くユニークな研究者であったということが窺い知れる。

 「学天則」には、西村真琴の思想と生き方と理念がみごとに表れている。学天則とは、「天則に学ぶ」、天の規則、宇宙の原則に学ぶという意味だ。「人間は地球の上で偉そうにしているが、人間が地球を勝手に扱っていいわけではない、という理念を西村真琴は持っていたと思う」と畑中氏は述べた。


 教育者としては、北海道大学の水産専門部の教授、そして晩年は神戸にある頌栄短期大学の教授もやっていた。北大の教授になる前はコロンビア大学に留学し、その前には、南満医学堂(後の満州医科大学、現在は中国医科大学)に招かれ数年間、生物学教授の任についた。

 保育の振興については、1936年に全日本保育連盟を毎日新聞社の社会事業団の中に事務局をおいて発足させた。翌年には雑誌「保育」を創刊し、8年間月刊で出版した(1937年4月~1945年2月)。これは、保育に関するエッセイや論文、子どもの遊びや童謡・童話などを扱う幅の広い雑誌だった。

 保育の振興という面では、西村真琴は「幼保一元化」を唱えた最初の人物だと、畑中氏はいう。幼稚園教育と保育の一元化という現在でも難しい課題を、当時の国会に意見書を出しているそうだ。

 3番目として、社会事業家というくくり方が適切かどうか分からないが……と断り、日中友好の先駆者としてのエピソードを紹介した。

 西村真琴は、1927年に北大の職をなげうって大阪毎日新聞社に勤めた。初めは論説委員、その後、事業部に移り、さらに大阪毎日新聞社会事業団の職員として仕事をした。

 1932年、上海事変が起こった。期間的には短いが、日本と中国の間にかなりの死者を出した戦争だ。この時、毎日新聞を中心に中国慰労奉仕団を作り、西村真琴が団長として、中国上海に行き医療奉仕の事前調査のため現地を視察した。

 5年後に日中戦争が勃発した時も「北支救療団」の中心として出かけていった。戦争のさなかに、医療奉仕を行なうというアイデアと実行力は西村真琴ならではのやり方だと思うと、畑中氏はいう。

 さらに西村真琴は「隣邦自動愛護会」という組織を作った。日本と中国で戦争を行なったため、中国にたくさんの戦災孤児が生まれた。そのことを知り、中国の戦災孤児を日本へ連れてきて、養育しようという考えを打ち出したのだ。さまざまな団体と折衝し、1939年に第一陣として68名の戦災孤児を連れてきた。そして、1944~45年に、67名を中国に送り返した。決して、日本に留めて日本人にしてしまうというのではなく、日本の中学・高校で教育を受け技術を習得して、中国に戻り国づくりに励んで欲しいという願いがあったのだろう。1人日本に残った子は優秀で、本人の希望で日本で勉強を続けたという。

 この事業には、天皇皇后から5,000円の御下賜金が交付された。当初の計画では、約1,000名に日本で教育を受けさせることを目標としていたが、残念ながら第2次以降は実現しなかった。畑中氏は「こうした活動があったことで戦争を起こした罪が拭われるわけではないが、そういう事業もあったことは知っていて欲しい」と語った。

 また西村真琴は、作家魯迅とも交流があった。上海を視察に訪れた時、ケガをした1羽の鳩を保護し、日本に連れて帰った。その鳩が死んでしまい自宅の庭に三義塚という碑を建てた。それを中国の作家である魯迅に知らせたところ、魯迅が漢詩に詠んで送ってきた。その詩碑は、現在、豊中市の中央公民館にある。


西村真琴の絵(孫の松尾宏氏所蔵)
 最後に芸術家の側面を紹介した。西村真琴は、版画や水彩画、油絵などすばらしい作品を残している。雑誌「保育」の表紙絵、口絵はほとんど西村真琴が毎月描いている。

 文学については、宝塚少女歌劇の弓削道鏡にちなむ脚本を書いている。1940年5月号の「保育」に掲載され、その年の5~6月に宝塚で上演されたそうだ。畑中氏が本を出版した後に、読者の方から、西村真琴が書いた童話のコピーを送ってもらうなど、新しい発見もあったという。

 陶芸家としては、豊中の公民館で釜を作り「豊焼き(ゆたかやき)」と名付けた。石を彫って判を作る篆刻もやっていたらしいことが分かってきた。

 このように多才で多くの側面を持つ西村真琴だが、「基本的には、博物学者として、地球上の全ての生き物を等しく愛し続けた人物である」と畑中氏はいう。

 西村真琴の口癖は「あぁ、これも生きてるな」だったそうだ。散歩中に、草やカラスを見ても「あぁ、生きてるな」とつぶやいていたと、孫の西村晃氏(俳優)が講演の中で回想していたそうだ。

 学天則の顔は、特定の民族をモデルにしたのではなく、全人類の複合体のような顔にしたのだという。そこには西村真琴の全て生き物、人を愛し続けた博物学者としての思想が表れている。そうした共存共生の思想が、学天則の中にありありと表現されていると、畑中氏は述べた。


学天則の時代~絵葉書でみる当時の博覧会

大口孝之氏(映像クリエイター)
 続いて映像クリエイターの大口孝之氏が、学天則が公開された当時に開催された博覧会の絵葉書や海外のロボットを収録した貴重な映像を紹介した。

 大口氏は、1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」で富士通パビリオンが上映した全天周フルカラー立体映像作品「ユニバース2-太陽の響-」(Echoes of the Sun)のヘッドデザイナーを務めている。この時に、立体映像や大型映像というドーム映像に興味を持ったそうだ。

 一般的な映画史をやっている人は世界中に大勢いるが、博物館や博覧会で上映するような教育的な映像に関して調べている人が誰もいなかったそうだ。そこで大口氏は、他にいなければ自分でやるしかないと、博物館・博覧会の資料を個人サイト「特殊映像博物館」で発表している。

 まず、博覧会でどういう映像が上映されたかを調べるためには、過去にどんな博覧会があったのかという点からスタートしなくてはならなかったという。そこで古物商や古本屋、ネットオークションで博覧会関係のものがヒットしたら購入しまくったそうだ。ところが、映像展示はほとんどなかったそうだ。そこで、映像以外のことも調べていく中で、「学天則」を見つけて興味を持ったという。

 学天則が最初に公開されたのは、1928年の京都大博覧会だ。この年、昭和天皇の即位が京都であり、それを記念して9~12月に博覧会が開かれた。この年は、日本全国で18以上の博覧会が開催されたという。

 「過去の博覧会で、どういう出展物があったのかを調べるのは難しい」と大口氏はいう。パビリオンの外観は絵葉書などで調べることができるが、内部でどんな展示がされていたか分かる資料が少ないためだ。

 ガイドブックや毎日グラフ、アサヒグラフのような写真集でレポートされているものが見つかればいいが、こうした資料はネットオークションに出品されていても必ず取り合いになる。「とんでもない値段で落札されていくので、付き合っていては破産してしまう」と大口氏は苦笑した。

 京都大博覧会で学天則がどこに展示されていたのか調べると、絵葉書に描かれている参考館の中にあったらしいことが分かったそうだ。この参考館の1/3くらいを毎日新聞社が使っていたらしい。しかし、そこでどのように展示されていたのかは、まだ資料が発見されていない。


1928年(昭和3年)大礼記念 京都大博覧会 大礼記念 京都大博覧会のパビリオン(1)

大礼記念 京都大博覧会のパビリオン(2) 学天則が展示されたのは、赤丸で囲まれた「参考館」だったらしい。(2)の左列中央の絵葉書

 大口氏は、1928年当時の学天則として、「日本ロボット創成記」(井上晴樹/NTT出版)に掲載されている写真をプロジェクターに映した。写真がつぶれていて分かりづらいが、動態復元された学天則とは顔の雰囲気が違うことが分かる。復元のモデルにした有名な写真は1931年ものになる。

 2回目の展示は、翌年3月20日~5月13日に広島で開催された「昭和産業博覧会」、3回目は朝鮮に渡り9月12日~10月31日の「施政二十年記念 朝鮮博覧会」で展示。その後は謎になるが、東京のデパートが主催する博覧会で展示されたようだ。学天則の写真として一番よく知られているのが、この博覧会のものだ。しかし、残念ながら展覧会の名前や規模は分からない。

 こうした民間の博覧会もたくさん開催されたと思うが、データが残っていないため調べるのはますます困難を極める、と大口氏はいう。地方行政が実施する場合と異なり、資料を残してくれないからだ。また、企業が倒産すると資料が出てこなくなる。運良く絵葉書が見つかったとしても、開催年月日が掲載されていないこともあるという。

 「昭和産業博覧会」や「朝鮮博覧会」も、内部資料がないためどこで展示されていたのか分からない。結局、学天則は5回くらい改修をして展示し、最終的にはドイツに行って行方不明になったといわれている。しかし、ドイツのどこにいったのかも分かっていない。

 学天則以外のロボットが、7月に上野で開催された「御慶事記念 婦人子供博覧会」に展示されたらしいが詳細は分からないという。どうやら、工事現場で腕を振っている交通整理人形のようなものだったようだ。「それを学天則を同列にして“ロボット”というのはいかがかと思う」大口氏はいう。


1928年に公開された「学天則」。「日本ロボット創成記」(井上晴樹/NTT出版)より 1929年3月20日~5月13日 昭和産業博覧会

1929年9月12日~10月31日 施政二十年記念 朝鮮博覧会 一番有名な写真は、1931年に東京で開催された博覧会の「学天則」だという

1929年公開の映画「メトロポリス」。ロボット“マリア”のデザインは今見ても美しい
 学天則が製作された1928年前後には、世界的にロボットブームが起こっていた。1927年にドイツで映画「メトロポリス」が製作され、日本では1929年に公開された。ノベライズ版は国内でも1928年に出版され、映画公開前に雑誌などで写真やメイキングが発表され話題になっていた。そのことから、「メトロポリスも、学天則製作に何かしらインスピレーションを与えているのではないか?」と大口氏は推測している。

 この当時、世界各国の博覧会では、何かしらロボットが展示されていたという。しかし、映像資料が残っているものは少ないそうだ。また、オークションに資料の出品があってもすぐに高値で落札されてしまい、入手が難しいという。大口氏は貴重なコレクションの中から「おそらく学天則もこのような動きをしたのではないか。参考になれば嬉しい」と2点の動画を紹介した。

 1933年のシカゴ万博には、シンクレア(Sinclair)石油が、屋外に大規模な恐竜ランドを出展した。動力に何をつかっていたのか不明だが、頭部や下顎が動く実物大恐竜ロボットは、当時の子ども達の人気をさらっていたという。シンクレアの恐竜はかなり愛好家がおり、現在でも恐竜ランドのフィギュアが日本国内でも新品で販売されているそうだ。

 これ以外にも牛の搾乳ロボット、医学教育用に人間を拡大し内臓のようすを見ることができるロボット、そして日本館に振り袖姿の女性ロボットが出展された“らしい”という。残念ながら、実際の映像が見つかっていないそうだ。


1933年5月27日~11月12日、1934年5月26日~10月31日、進歩の世紀博覧会(シカゴ万博) 【動画】1933年シカゴ万博に出展されたシンクレア(Sinclair)石油の恐竜ロボット。機械仕掛けの実物大恐竜モデルが、頭部を動かして子ども達の人気となった

 1939年、ニューヨークの博覧会にもいくつかのロボットが出展されていた。ウェスティングハウス社が出展した「エレクトロ」はカラー映像が残っている。中の機構は11個のモーターを使い、足はレールの上を滑らせて歩行している。また、指を曲げて数を数えることができ、たばこを吸って鼻から煙りを出すという芸ができたそうだ。声は俳優がアテレコしている。


1939年4月30日~10月31日、1940年5月11日~10月27日、ニューヨーク世界博覧会 【動画】1939年ニューヨークの博覧会にウェスティングハウス社が人間型ロボット「エレクトロ」を出展した

学天則の復元

長谷川能三氏(大阪市立科学館 学芸員)
 次に、長谷川能三氏(大阪市立科学館 学芸員)から、「学天則の復元」について講演があった。

 学天則の動態復元する以前から、大阪市立科学館には学天則の模型が展示されていた。これは、1992年に同館が制作したオムニマックス映画「大阪 the Dynamic City」の案内役として製作したものだ。以来16年間、館内に展示され、要望があると各地のイベントに貸し出していたという。

 この模型は、オリジナルの50~60%程度のサイズで、映画の中では動いているが、その後動作機構を外してあった。顔つきも現代人ぽく、オリジナルの学天則とはイメージが違っていた。そうした縁もあり、9年ぶりに館内展示をリニューアルするに伴い、目玉として学天則を動態復元することになったそうだ。


当時の写真を参考にし、50~60%サイズの模型を製作。1992年から館内で展示した レプリカ「学天則」のアップ。昨年、復元したものより現代的な顔をしている 【動画】1992年、大阪市立科学館が制作した「大阪 the Dynamic City」の案内役として登場した学天則

 ロボットという単語は、そもそもチェコスロバキアの作家カレル・チャペックが1920年に執筆した戯曲「R.U.R(ロッサム万能ロボット)」の中に初めて登場した。ロボットという名称は、兄である画家のヨゼフ・チャペックのネーミングによる。この時代に世界中でロボットブームが起きたが、そのきっかけになった作品だ。日本でも上演された記録があるそうだ。

 R.U.Rに登場する“ロボット”は、化学合成によって作られるため、我々がイメージするメカメカしいロボットとは少々違う。人間に代わって労働を行ない、感情がなく、痛みを感じることがない。そして30年くらいの寿命があるという設定だ。「どちらかというと、ブレードランナーのイメージに近いのではないか」と長谷川氏はいう。


カレル・チャペックの戯曲「R.U.R」で、ロボットという言葉が認知された 「R.U.R」に登場するロボット。左がヨゼフ・チャペックが描いた戯曲の挿絵。右は芝居に登場したロボット

 同時期に映画「メトロポリス」のマリア、アメリカで電話を使って遠隔操作をする装置「テレボックス」が作られた。「テレボックス」は最初はただの箱形だったのが、後に手足をつけて今のロボットのイメージに近づいた。

 この頃に今のロボットに近い物が登場したり、ロボットのイメージが固まったことに間違いはないと、長谷川氏はいう。R.U.Rに登場する有機的な生命体ではなく、金属製のメカニカルなロボットのイメージへこの数年で変化したようだ。

 「学天則」が誕生したのはそんな時代だ。


1927年、映画「メトロポリス」の上映でロボットのイメージに変化が起こった 「テレボックス」。開発当初は左の状態だったのが、最終的に右のようなロボットになった

 1926年、大阪毎日新聞社が募集した「五十年後の太平洋」という論文に西村真琴が応募し、佳作に選ばれた。これがきっかけになり1927年の暮れ、西村真琴は北海道帝国大学の教授を辞して、大阪毎日新聞社の学芸部顧問兼論説委員の職に就いた。

 1928年9月には京都で大礼記念京都大博覧会が開催されている。大阪毎日新聞社は、当時としては画期的な新聞の印刷機である「インタータイプ工場」の模型と、学天則を出展した。学天則発表のタイミングから逆算して、おそらく転職の話が出た段階では、学天則製作のプランが進んでいたのではないかと、長谷川氏は推測する。

 西村真琴は、R.U.Rのことはよく知っていたと長谷川氏はいう。西村真琴の著作には、実用的なロボットを製作しても人の幸せには繋がらないのではないか? というアンチテーゼとして芸術的なロボットを製作したと記されている。西村真琴は、人間の創造力を「学天則」の動きで表現し、意匠には学天則の名が示すとおり「天(宇宙・自然界)の法則」の意味を込めている。


学天則の顔は、特定の人種に偏らず全世界の民族のよいところを合わせもっている 頭上の「緑葉の冠」は、植物の生育だけでなく、他の生物の食べ物のもとになる 左手の「霊感灯(インスピレーションライト)」。頭上に掲げた霊感灯が光る時、学天則がインスピレーションを感じている表現

コスモスの花章は宇宙と世界を意味している。コスモス(cosmos)は、ギリシャ語「Kosmos, Cosmos」(=「美しい」「秩序」)に由来し、宇宙のcosmosと同じ語源 鏑矢のペンは、物事のはじめを意味し、ものを生み出す人間の想像力の象徴 記録台中央には、太陽とその中に潜むという3本足の八咫烏(やたがらす、やたのからす)が描かれている

ムカデ・雉・蛙・蛇。それぞれ敵対していても不必要な生物はいないことを意味する 雌の記号・炎・熱帯の樹木。炎は情熱、実り豊かな熱帯の樹木は繁栄を表す 雄の記号・水流・樫の木。水の流れは自由な意志を意味し、樫の木は太平を祈るために植えられたという伝説に基づく

 少ない資料を元に、学天則を動態復元するには多くの苦労があったという。

 現存している学天則の写真を下記のように並べ【写真1】~【写真5】、顔の部分を見比べるとずいぶん雰囲気が違って見える。今回の復元にあたっては、一番鮮明に残っている東京で開催された博覧会の写真を目指したそうだ。

 博覧会開会当日の写真は、他と比べてずいぶん顔つきが違うから、たぶん事前に撮影された出展する前の試作写真ではないか? というのが、長谷川氏の考えだ。

 サンデー毎日と博覧会の写真帖については、撮影角度が違うだけで同じ顔のように見えるが、同じ1931年でも【写真4】と【写真5】では、照明の影響もあるのかもしれないが、それにしても顔つきがずいぶん違う。

 これだけ顔が違ったら、別物の学天則ではないのか? という疑問も生じる。しかし、これらの写真を学天則のサイズや位置を合わせて、パラパラ漫画の要領でチェックすると肩のラインや、頭と緑葉の冠と顔の隙間部分、耳というパーツが一致しているそうだ。服装と顔つきは違うが、それ以外はどうやら一致しているので、同じ学天則で顔のマスクと衣装の修復をしたのだと思われる。おそらく顔はゴム製のため、傷んできたらすぐに取り替えていたのだろう。そのために顔つきが変わったようだというのが、長谷川氏の意見だ。


【写真1】1928年9月20日、大阪毎日新聞に掲載された学天則 【写真2】1928年11月4日号のサンデー毎日に掲載された学天則 【写真3】大礼記念京都大博覧会写真帖の学天則

【写真4】1931年1月11日の日付がある写真の学天則 【写真5】1931年東京で開催された博覧会の学天則。撮影時期は春だと思われる 【動画】各写真の肩のラインなどを合わせて、表情の変化をチェックしたという

 学天則の動きは、現存している写真から推察したそうだ。写真によって学天則の表情は、正面を向いてパッと目を見開いている、目を閉じているまたは半開き、口の開閉、頬の膨らみなどの変化が見て取れる。

 まぶたの閉じ方は、人間は上まぶたが降りてくるのに対し、学天則は上下が同じように動いている。「たぶん、上まぶただけ下げると、眠たそうな表情になってしまうのだろう。瞑想しているイメージを出すために上下を動かしたのではないか」と長谷川氏はいう。

 身体の動きも、同様に写真を検証したそうだ。霊感燈を持った左手は上下に動く、ペンを持った右手が動く。ペンの向きも少し変わっているようだが、動いてしまったのか機構が入っていたのかは不明。

 西村真琴の次男である西村晃氏の話によると、学天則が左右に首を振るときは、少し上を見ていたらしい。長谷川氏は「首を二次元に動かすのはかなり難しいので、軸を斜めにして横を向いた時に上を向くようにしてあったのではないかと思う」と述べた。

 西村真琴の著作には、手指、呼吸についても書かれているが、写真を見ても指が動いているようには見えない。呼吸については、写真を重ねて詳細に検討すると、胸全体が前後に動いているのが分かり、胸を動かすことで呼吸を表現していたようだ。


写真を並べて表情の変化を検証 【動画】写真を重ねて身体の動きをチェック。胸を前後に動かして呼吸を表している

 こうした学天則の動作機構に関しては、圧縮空気を利用していた。空気を使うことで、強弱長短の微妙な調整ができる。この機構は、西村真琴が尺八を吹いていて思いついたらしい。制御は、オルゴールのような原理の回転ドラムによるプログラムを採用している。回転ドラムについたピンがゴム管を押さえて、空気が通る/通らないを制御するものだ。

 この圧縮空気を使うというのは、「生き物らしい動きをさせたかった」という西村真琴の思想を表しているので、復元にあたっても活かしている。ただし、現代のエアシリンダーを用いて、制御はコンピュータで行なっている。その代わりドラム式の機構模型を別に作り、当時どのように動いていたのかが分かるようにした。

 「科学知識」に掲載された学天則の頭部の写真があるが、開発中に試行錯誤しているので、完成した学天則の頭部がこれと一致しているかどうかの保証はない。しかしこれを見ると、右目と左目がそれぞれ独立しているというのが分かる。けれど、縦棒は柱かな? 横の短いのは動くのか? などと子細に検討を始めると、よく分からなくなる。また、プーリーみたいなものも見える。頭の中だけでいろいろな機構を詰め込むのが難しくて、首を通じて下の方に動作機構の一部を持って行っていた可能性もあるかな、と検討に苦心したそうだ。

 他にも現存する資料だけでは、解明できなかったこともあるという。例えば、点滅装置に関しては、記述を読んでも意味が分からなかったそうだ。西村真琴の著作に「蛇の腹鱗(ふくりん)から新案した伝記の点滅装置が大いに有効であった」「これは蛇の腹鱗が地面との摩擦によって生ずる移動の状態からヒントを得たものであって、この特殊動力は特にわがガクテンソクの腕と手に連絡されて、いはゆる反射運動に擬したのである」とあるが、意味が不明で復元は、諦めたそうだ。

 また、1931年1月11日に撮影されたと思われる写真は、どこの展示か分からない。写真に写っているのぼりの文字が「○○博覧会」と読めるが、肝心なところが判読できずにいるという。

 「何か思いつく人がいたら教えてほしい」と長谷川氏は情報提供を求めた。


西村真琴が記した学天則の原動力解説。残念ながら現時点では意味が不明 【動画】圧縮空気を利用した動作機構の説明。水色:まぶたの開閉、緑:頬、黄色:目玉、赤:口の動きを制御している

1931年1月11日に撮影したと思われる写真。展示会場などが不明 キャラクタの顔の横に「○○博覧会」の文字が見える。右下に不鮮明ながら店名とロゴが表記されている

 このように、限られた手がかりを元に復元にあたったが、一番苦労したのは、顔だったそうだ。長谷川氏は、学天則を復元してみて「人は、人間の顔に敏感だなぁ」ということに感得したという。人は互いに顔を合わせていても、ちょっとした表情の変化で相手の気持ちが推測できるほど敏感に反応する。だから、学天則の顔型を作ってもらっても「なにか違う」と非常に難しかったそうだ。

 復元には1931年の写真を基準としたが、表情も撮影角度も違う写真しか現存していない。業者からは「同じ表情で、いろいろな角度から撮った写真があれば作ったる」と言われたそうだ。写真を見比べても、角度による違いか表情による違いかがごちゃまぜになってしまい悩んだという。

 学天則の顔は、人間の顔と比べると彫りが浅く、お祭りで売っているお面のようなわりと平らな顔になっている。型の製作途中の写真を見ても、学天則らしく見えない。それが素材をゴムにして、“緑葉の冠”を被せると雰囲気が変わるし、目を開いたり閉じたりしても違う。顔の造形には最後まで苦心したそうだ。

 最初はスカスカだった学天則の頭の中は、機構をいれると隙間なく埋まってしまい、思うような動きをさせるのに苦労したという。こうした復元の過程を経て、学天則のサイズは博覧会でどんっと大きく展示したかったのもあるだろうが、「頭の中に表情を動かす機構をいれようと思うと、必然的に大きくなったのではないか? それに合わせてボディを作ったためにあのくらいになったのではないか」と思ったそうだ。

 学天則の製作費用について「西村真琴は、あれだけ行動力がある人だから、今の貨幣価値で自家用車1台分位で製作できるのだったら、個人で作ってしまったのではないか。大礼記念の博覧会に、新聞社が目玉展示で出展したのだから、家が一軒建つか建たないか位のお金が掛かったんじゃないか」と長谷川氏は推測している。

 長谷川氏は、「学天則は人間の創造力を表現したロボットであるが、西村真琴自身が、想像することを楽しんで作ったんだろうな」と復元して感じたそうだ。

 「忠実に復元しようとすればするほど、現存の資料では委細な点が解明できないもどかしさがある」と、長谷川氏はいう。“緑葉の冠”は、もしかしたら緑だったのかもしれない。着ている服も、写真から濃淡は分かるが、色は不明だ。科学館に学天則の模型を16年間展示していたので、資料から決め手がない部分については、模型に準じた色にするのが違和感がないだろうということで決定したそうだ。

 復元後も、動作機構の工夫についても、写真を見比べると霊感燈は全体が光ったのではなく、先の方だけが光っていたようだとか、書籍に、学天則を東京に持って行くときにはしゃべる機構を追加したと書かれているなど、新しい発見があるという。

 今後も新たな資料が発掘され、学天則の研究が進むことが期待される。


西村真琴本人が雑誌「科学知識」に執筆した「学天則」の解説記事 現存する数少ない写真資料 1930年発行「大地のはらわた」西村真琴著

パネルディスカッション

 3人の講演者に、西村真琴の孫にあたる松尾宏氏を加えパネルディスカッションを行なった。司会は長谷川氏が務めた。長谷川氏は、西村真琴との関わりを各人に尋ねた。

 松尾宏氏は、「西村真琴が亡くなった時には小学5年生だった。祖父である西村真琴とのつきあいはあまりなかった」といい、西村真琴の家庭での生活状況や人となりは母親や姉から聞いているという。松尾氏は、西村真琴はスケッチや剥製を作るような仕事をしており、子どもと一緒に絵を描きに行くような面もあったという。また学天則の話や三義塚については世間では話題に取り上げてもらったが、身内ではそれほど大きな仕事をしたとかそういう話はでていなかったそうだ。なお、二代目水戸黄門として有名な俳優の西村晃氏(1923~1997年)は、西村真琴の次男で松尾氏の母と晃は12歳差になる。


松尾宏氏。西村真琴に関する資料や写真を提供された 晩年の西村真琴

 長谷川氏は、西村晃氏の話題を受けて「学天則がドイツで行方不明という話が、当時の資料を調べても記述が出てこないんです。どこから出た話なんだろうと思って、荒俣宏氏が同館に取材に来た時に話しを伺うと、西村晃さんから聞き取った話だということでした」と、エピソードを披露した。ただ、当時の西村晃氏は8歳くらいで、どうやら本人の記憶では「お船に乗って行っちゃった」くらいの話だそうだ。

 大口氏が西村真琴に興味を持ったのは、個人的に昭和初期の科学者と芸術家と文学者を一緒にやってるようなタイプの人が好きだからだという。「最近は、学校教育のやり方が文系・理系・芸術系って3つに分けているから、真ん中に才能がある人が頭角を現せないという状況じゃないかと思う」と述べ、当時は学問のジャンルが割と自由に行き来できて、西村真琴のような人が芽を出した気がすると語った。

 長谷川氏は、西村真琴が紹介されている文献として既に絶版の「日本ロボット創世記」(井上晴樹/NTT出版)、「大東亜科學綺譚」(荒俣宏/筑摩書房)を紹介。現在入手可能な「奇想科学の冒険―近代日本を騒がせた夢想家たち」 (長山靖生/平凡社新書)には、他にもひと癖ふた癖ある科学者が掲載されていると紹介した。

 大口氏は、日本では博物館も博覧会も学問として成り立っていない。開催時にリアルタイムで記録を取っていかないと、後になって資料をあつめるのは困難を極めると指摘。博覧会は、“金の無駄遣い”とか行政の一番悪いところみたいな言い方をされて、悪者にされやすいが、決してそうではない。博物館も博覧会も、一般に科学や文化を啓蒙するのに役立っていることを、誰かが言わないと……と懸念を示した。

 大口氏によると、これまでに博覧会をきっかけにして出てきた発明は山ほどあるそうだ。例として、1914年東京大正博覧会に、ハーフミラーを用いた疑似立体映像の演目があったことをあげた。これは、近年マジックビジョンとして注目を浴びたが、大口氏によると再発明だという。このように、過去に同様の例があるのを忘れていて、50年くらいしてから再発明されることが多いそうだ。「1つ1つの博覧会をみていけば必ず面白い発明があるのだから、ないがしろにせずちゃんとデータベース化しておけば無駄な時間を過ごさずにすむ」と大口氏は述べた。


 会場から、「京都の博覧会では、他の新聞社は出展していたのか?」という質問が出たが、長谷川氏も大口氏も記録がないという。

 大口氏は、当時の博覧会の中身はパターンが決まっていて、機械館とか大雑把な名前の付け方で、企業の冠がついているところはほとんどない。冠が付くようになったのは、大阪万博以降くらいだそうだ。そのため、それ以前はパビリオンの名前を見ただけではさっぱり分からないという。

 長谷川氏は、学天則の研究にあたり、当時の新聞を図書館でチェックしたが、記憶にないという。毎日新聞には同社の学天則が掲載されていたが、他紙に自社が出展しているという記事は見ていないそうだ。ただ、当時はたくさん博覧会があったから、他の博覧会に出展していた可能性はある。

 大口氏は、「博覧会研究家である寺下勍氏が、乃村工藝社が作った博覧会資料館にコレクションを寄贈している」といい、そこに行けば、学天則に関する資料もなにかしらあるかもしれないと述べた。

 話はまた映像や資料のことに戻り、「日本は動画のフィルムを残していることが非常に少ない。これをどうやって調べていくかすごく難しい」と大口氏がいうと、長谷川氏が「学天則についても、動画フィルムがあったのではないかという情報があったんですが……。書籍と違って調べるのが非常に大変」と苦労を語った。

 関心事としては、当時の資料がモノクロしか残っていないことで「現物の色がわからない」としきりに長谷川氏が繰り返していた。

 すると、大口氏が「ホントかどうか分からないんですが」と前置きした上で、「僕のコレクションの絵葉書は色が塗ってありますが、これは人工着色です。こうした職人さんは日本に何人か残っているんですが、彼らは白黒の濃淡を見ると元のカラーが分かる人らしいです」と発言した。

 びっくり人間のようなテレビ番組に出て、本当かどうか試験して実際に元の色を当てたそうだ。「たぶん基準になる色、人間の肌とか植物の緑などがどこかに必ずあるので、そこから濃淡を見ていって推測するんだと思います。そうした方にお願いしたら、恐らく白黒写真からカラーの復元ができる可能性があります」といい、客席を沸かせた。

 長谷川氏も、これは初耳のようでとても驚いていた。今後、モノクロ写真から当時の学天則の色が判明したら、楽しいと思う。


URL
  大阪市立科学館
  http://www.sci-museum.jp/
  特殊映像博物館
  http://www.tcat.ne.jp/~oguchi/

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( 三月兎 )
2009/02/02 11:32

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