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通りすがりのロボットウォッチャー 丁寧でユーモラスな家事手伝いロボット
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Reported by
米田 裕
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やっぱりロボットというのは、等身大に近づいてくるとムムムムムと身を乗り出してしまうなぁ。
小さなロボットだとおもちゃ的だが、人ぐらいの大きさとなると、開発も大変なためか、なかなか新しい物が登場しない。
ROBO-ONEでも、最近は大型クラスというのがあって、1メートル近い高さを持ち、重量も20kgクラスのものも登場してきているが、大型化は小型のものを単純に大きくしただけではむずかしそうだ。
先日、『鉄腕アトム』の「アトム今昔物語」を読み返していたけど、お茶の水博士って、元々は市井の研究者だったのね。
1960年代後半から、自分でこつこつとロボットを作っていた人だったのだ。それがアトムの生まれた2003年以降に、天馬博士の後をついで科学省長官となっているのだ。
そのロボットは人間より大型のもので、失敗して爆発し、アパートを壊していたりするのだから、とてもあぶない研究者だったようだが。
個人でのロボット開発は、お金のこともあって、大型化していくのはむずかしいだろうと思う。
● 家事手伝いロボット登場する
さて、東京大学IRT研究機構の開発した「ホームアシスタントロボット」は、家の中で家事の手伝いをするものだから、人なみの大きさがある。身長(というか全高)は約1.5メートルだという。
これぐらいだと存在感があるね。
脚はなく車輪で走行するので、脚のない馬という雰囲気だ。その昔「名前のない馬」という曲があったけど関係ないか。
そして上半身には両腕がある。胴体は車輪部から持ち上がり、細い腰部は垂直状態から前方へと傾くようになっている。
頭部には広角ステレオカメラ、望遠ステレオカメラが4つ目のようにあり、頭頂部に全方位カメラと、5つの目を持っているとのこと。
四角い頭部なので、前面から見るとサイコロの目のようにも見える。
ロボットらしいというか、その動作を見ていると人間では考えられない動きをする。
● やはり人とは違う動き方
まずは車輪で動くためか、部屋の中を移動する場合の動線が人と違う。人なら一直線に目標へ向かって動くと思うが、ホームアシスタントロボットは、まずあさっての方向へと動く。それから舵をきって回り込み、目的地についたときの身体の向きを決めるようだ。
このロボットには、腰部の回転は前へ傾くのみで、左右へは回転しない。そのために、腕や手が作業にちょうどいい位置となるためには、車輪での走行時に身体の向きを決めるのだろう。
身体の向きがうまく合ってないと、いきなりバックをして向きを直したりする。見ていると自動車を駐車場に入れるときに、何度も前後に動きながらハンドルを切って向きを変えるのに似ている。
トヨタ自動車株式会社も製作に関わっているというので、自動車的な動きとなったのだろうか。
二足歩行のロボットなら、ひょいと横へ1歩移動すればいいが、車輪ではそれができない。
そのために車庫入れバックのような動きや、カーブすることを前提とした方向への移動となるようだ。
そうした移動方法を外部から見ていると「おいおい、どこへ行くんだ?」と最初は思ってしまうが、移動後の場所と身体の向きを見ると、「なるほどなぁ」と思う。
このロボットは、自動車のような車輪移動体の上に、双碗のロボットアームとカメラのついたものと考えると納得がいく。そう思って見ていると、車輪のある部分の前面がだんだん自動車のフロントグリルに見えてくるから不思議だ。
腕は、片方で7つの自由度を持つ。手には指が3本あり、2段階で曲がる。
人の腕の動きから見ると、ロボットの腕はびっくりするような角度に曲がる。そして、人間の関節とは逆方向に曲がるように見える。
これは上腕部で回転をするので、曲がる向きが人と逆に見えてしまうためだ。いきなり人の関節とは違う向きに曲がるように見えるとギョっとする。
そんな無理な体勢で物をつかまなくてもいいんとちゃうのと、人間の視点ではそう思えてしまう。
ロボットにとっちゃ余計なお世話だろう。ロボットにはロボットの腕の動かし方の流儀があるに違いない。
それが人とは違う型なので、その動きはアクロバティックに見えるわけだ。
そして、人間とは違い、右利き、左利きというものがない。両手のどちらでも同じように動いて物をつかむ。
人なら右手で拾うがなぁと思うものでも、左手で拾ったりするし、手の部分もくるくると回転をする。
● 動きとすることのギャップ
なめらかにくるくると動く腕だが、その動作はわりとぞんざいな感じがする。
ロボットアームというと、正確無比、同じ動作を何度でも繰り返せるという工業用ロボットの動きを思い浮かべるが、ホームアシスタントロボットの腕と手は、見た目の優雅さとはあまり関係なく動く。
そのイメージとのギャップから、ロボットに親しみを感じてしまう。なんとも不器用に生きてきた人っぽく見えて、自然と顔がほころんでいるのだ。
洗濯機のフタを開けるときに、オープンボタンを押す。ロボットらしい動作だ。
つぎにちょっと開いたフタをポンと手で払いのける。
「ちょっと乱暴でないかい」と見ていると、さらにフタを手で押しのけて完全に開ける。そして、何事もなかったかのように、ていねいにシャツを洗濯機の中へと入れる。
イスをどかすときも、そろそろとイスの背をつかむ。つかんだら、傾けて2本の脚を接地させたままいきなりバック走行でイスをひきずっていく。「イスは持ち上げて運びましょう」という小学校のときの掃除の時間に注意されたことを思い出してしまった。
スイーパーによる床掃除も、すこしずつ位置をうごかしながら拭いているのに感心するけど、四角い部屋を丸く拭くという感じで、同じロボットなら「ルンバ」の方が隅々まで掃除をしてくれそうだ。
こうした、ロボット=最先端、実はぞんざいな存在といったギャップがおかしく、ぐーたら人間としては親近感がわいてくる。
藤子・F・不二雄さんの『21エモン』に登場する「ゴンスケ」を思い出した。
● 考えると止まる動作
このホームアシスタントロボットは、自分の目を持ち、つねに位置や動作を確認しながら動いている。
見ていると、考えている時間もけっこうある。
頭を動かして対象を見る。考える。動作を始める。見る。考える。動く。見る。考える。
考える。考える。考えている。あ、コワイ考えになってしまった。
なんて突っ込みを入れたくなる。
見ていると動作のプロセスが直線的に、時間軸に沿って行なわれていることがわかる。
プログラム化されたコマンドの処理では、こうした動きになるのだろう。
将来的にプロセッサの速度が上がれば、考える時間を短縮できるだろうが、人間との違いがわかって面白い。
人間の動作は、かならずしも時間的経過を直線的にたどってないように思える。
動作の部分ごとに「無意識」で行なっている部分がありそうだ。いわゆる「身体で覚えている」といったものだ。
いや、人が無意識だと思っているだけで、脳では情報処理が行なわれているのかもしれないが、わざわざ意識して記憶しておく必要もないと判断して、その場限りで忘れていくのかもしれない。
「無意識にやって覚えてません。あー、この手が、この手がぁ!」などと犯罪をしでかした人間が言いそうだが、普通の人でも、物が落ちれば受け止めようとするし、手に物をぶらさげて歩いているときには、ぶら下げた袋などの動きは気にしない。
駅の改札で、自動改札に切符を入れたり、SUICAやPASMOをかざすときも、ほとんど無意識に近い状態で動作をしているのではないだろうか。
箸を持って物を食べるときも、
「こ、これが箸なんだな」
「まずは手を近づけて持つんだな」
「つぎに丼を見つけるんだな」
「丼の位置を確認。手を近づけるんだな」
「位置がずれたので修正」
「丼をつかんだから持ち上げるんだな」
「口の前へ持ってくるんだな」
「箸を丼へ近づけるんだな」
なんていちいち考えることなく、割り箸をパキンと割って、丼の中へと突っ込み、箸でソバを持ち上げて、ふーふーと吹いて、ずずーっとたぐる。つゆをんぐんぐと飲むときもいちいち考えてはいないだろう。
● 現在のプログラムではやはりむずかしい?
人のこうした動きはプログラムである「もし何々ならば~」「何々しなさい」という形式では書けないのではないだろうか。
ロボットを動かす仕組みには疎いのだが、やはりパソコンのようにOSがあって、それにのっかるプログラムがあって、それで動作するという仕組みだろう。
ロボットにはセンサー類がたくさんあり、カメラによる映像、超音波による位置の測定、自分の身体の向き、移動量、動き、傾きなどをリアルタイムに検出し、それを元にプログラム上の処理をして、アクチュエーターを動かす。この一連の動作を延々と繰り返しているのだと思う。
プログラムが途中で分岐していたり、ジャンプすることがあっても、頭から順番に手順を繰り返していくのだろう。
従って、「考える間」が動作のいたるところにはさみこまれる。だからゆっくりと動くことになる。
演算装置の能力が上がり、考える時間がとても短くなれば、止まることなく動けるのだろうか?
それとも、現在のプログラムの作り方では解決できないのだろうか? そこらへんがわからない。
人間の動きを解明することが解決策になるかはわからないが、ロボットを開発しているうちに、人に関心が移って、人間の研究を始めてしまうというのも納得できる。
そして、正解があるのかないのかわからないので、ロボット研究は面白くむずかしいのだ。
20年後、ボクは年寄りになっている。ロボットだけが頼りの老人となっている可能性は大きい。
高齢化社会に対応できるよう、ロボットを早く開発、改良してもらって、10年、20年後には、年寄りでもぐーたらと生きられる世の中になっていてほしいものだ。
■ 関連記事
・ 通りすがりのロボットウォッチャー ロボットは人間を伝承できるか?(2008/09/26)
米田 裕(よねだ ゆたか)
イラストライター。'57年川崎市生。'82年、小松左京総監督映画『さよならジュピター』にかかわったのをきっかけにSFイラストレーターとなる。その後ライター、編集業も兼務し、ROBODEX2000、2002オフィシャルガイドブックにも執筆。現在は専門学校講師も務める。日本SF作家クラブ会員
2008/10/31 00:59
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