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ロボットの進化は失速したのか?
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通りすがりのロボットウォッチャー
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Reported by
米田 裕
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サッカー選手である『世界のナカタ』は、「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言い残して現役を引退した。
うひゃー、20代でそうくるかである。となれば、人生において、自分が当事者でないことは、必然的に「通りすがり」としてしか見ることはできないもんね。
自分でできることならまだしも、できないことはいつも「通りすがり」の視点で見ることになるのだな。
ロボットについて、オレは開発者でもないし、技術者でもない。しかし、気になる存在として見続けてきた。ならば「通りすがりのロボットウォッチャー」といえるだろう。
ロボットの現在と行く末と技術とデザインを見続けていく「通りすがり」宣言をしちゃうもんね。
● ロボットとの出会いはマンガから
子供のころからロボットは身近だった。とはいっても、今から50年近く前のことなので、ロボットが実際に身近にあるわけはない。ロボットとの最初の出会いはマンガだ。
マンガは床屋へ行ったときに置いてある、ページの間に髪の毛がはさまったような月刊マンガ誌を待ち時間に読むぐらいだったが、コメディ、ギャグ作品や未来志向の作品が好きだった。そうした作品にはロボットが登場していたのである。『ロボット三等兵』(前谷惟光)なんてロボットギャグだったしね。
こうしてロボットという単語を知るとともに、機械でできているとか、特殊能力があるとか、人間と話ができるなんていう先入観を植え付けられてしまったわけだ。
幼稚園のときに、日本初の30分連続アニメ『鉄腕アトム』(手塚治虫/虫プロ)が放映開始となる。同じ年に『鉄人28号』(横山光輝/エイケン)や『エイトマン』(平井和正/桑田次郎/エイケン)が放映され、ロボットに対するイメージは決定的になった。
ロボットとは、人型で人間を超える能力を持つ機械の身体を持つものと頭に刷り込まれてしまったわけだ。これは同じ年頃のロボット関係の開発者や研究者たちにも同じように刷り込まれたのと違うかなぁ。
● ヨタヨタ歩くロボットから2足歩行の確立へ
オレの小学生時代はおりしも高度成長期。行け行けゴーゴーと社会は未来へ向かって加速していた。人間は月へ行き、ロボットも大学の研究室で少しずつ姿を現しはじめていた。
そうしたロボットはテレビニュースで取り上げられた。テレビ好きな子供としてはそうしたニュースも見ていたが、たくさんのケーブルをぶらさげて少しずつ動くロボットは、アニメやマンガのロボットとは違っていた。
「まだまだだな」とつぶやくオレは、今から思うと生意気なガキだったね。
やがて公害だのオイルショックで時代は一変し、未来への加速は一気に鈍った。40歳をすぎたら宇宙旅行ができるとノーテンキに思っていられた時代は終わった。いつまでたっても実際のロボットたちはスタスタと歩くことさえできなかったし、とても超人的能力を持つとは思えなかったな。
ロボットが5メートル歩いたとか、体重移動をするようになったとか、ヨチヨチ歩きの時代は長く続いた。20世紀末、子供のころに夢見たロボットは登場しないじゃんとあきらめきっていた。
ところが、'96年12月にホンダから『P2』が発表されたときには、うわぁとイスから落ちそうになった。今まで想像もしていなかったホンダという自動車メーカーが2足歩行ロボットを作ったということはなかなか信じられなかった。
歩く映像を見て、こんどはイスから転げ落ちた。今まで知っていた大学などの研究室のロボットを軽く凌駕していたからだ。
「人が入ってるんと違うか?」と話題になったものだ。そして、『P3』から『ASIMO』と開発は進み、ソニーからは愛玩ロボットの『AIBO』も発売となり、21世紀には一気にロボットが活躍するかと思えた。
● ロボット、壁に突き当たる?
ところが現実の21世紀になると、ロボット開発の動きは、またもや鈍くなった。歩行という動きはできたので、次のステップへと移る時期となったためだ。そのためか「すげー!」と単純に目に見える進歩部分は減ってしまったね。
次のステップとは、自律(自立?)のための機能、知能の開発にとりかからないといけなくなっちゃったわけだ。この知能がやっかいなのだ。
今年3月に亡くなったポーランドのSF作家、スタニフワフ・レムは「人間に知性を持った機械は製造できない」と考えていた。それは「人間には人間の知性の原理は理解できない」ということが根拠らしいんだけど、人間には人間の知性モデルが作れない以上、「人間の知性を持った」ロボットはできないとなるわけだ。
そ、そうなのか? と妙に納得してしまう部分もある。
しかし、機械知性など、人間とは異質な知性は作れる可能性があるという。
それだと、ロボットが何を考えているのかわからないので、ロボットとコミュニケーションをとることがむずかしいかもしれない。
取材をしたことがあるロボット製作者は、自律型のロボットなんて怖くてとても作れないという。そのロボットが何をするのかわからないし、ロボットが罪を犯した場合、誰が責任をとるのかという。だから、操縦型ロボット以外は作りたくないとのことだった。
これならまぁ、自動車と同じ考え方ですむ。良いも悪いもリモコンしだい、責任は操縦者がとりなはれということだ。
ロボットを人間にとって安全にすることもむずかしそうだ。ロボットの安全対策なら、'50年代にSF作家のアイザック・アシモフが作った『ロボット三原則』があるじゃんと思うだろうが、一見論理的に書かれているそれは、プログラム化はできないものだ。
● フレーム問題って何?
そうなってしまう原因に「フレーム問題」があるという。たとえば第1条の「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」だけでも条件を指定しなくてはならないことが無数にある。
また、「その危険を看過することによって」という推論方式の実装はむずかしいとのことだ。「非単調推論」という分野で、第1条に反しないことを証明することは不可能という事実があるためだ。
人間とは? 人間にとっての危害とは? 危険とは? 看過するとは?
プログラムにするためには想定される条件をことこまかに書かないといけないので、あっという間に記述が爆発的に増えてしまう。とても書ききれなくなるし、処理しきれなくなるのが「フレーム問題」といわれている。
頑張って、そのすべてをデータベースとしたとしても、大容量のメモリと処理のための高速な演算装置を持っても、何かの枠内(フレーム)で考えないと処理しきれない。
枠をはみ出した部分、無視していいとされた部分に人間への危害がおよぶものがあったとしたら、そのロボットは不良品ということになる。
となれば、ロボットは考えるとまったく動けなくなってしまうのだ。地下鉄がどこから入るのか考えると夜も寝られなくなっちゃう『三球照代』の漫才ではなく、安全を考えたら「なにもせん方がええ」ということになれば、とても人を助けるなんてできないやんか。
怪獣退治をするウルトラマンはビルを壊しまくっているが、ビル内に人がいることは考えないのとは大違いだね。プログラムでは心配性のようにそういうことまで書かないといけない。
フレーム問題を回避できるプログラム方があるのか? それとも別のアプローチが必要なのか? ここらへんが解決しないと、ロボットの知能もすんなりとは進歩しないのかな。いやはや、なんとか解決してもらって、進歩の加速をしてもらいたい問題のひとつだ。
● あらためて「通りすがり」宣言
だけどね。たとえ開発の歩みが遅くなってもロボットには期待しているし、子供のころに夢見た「おなじみ」のロボットにもいつかは登場してもらいたいと思っている。
「は、はやくしてくれー」とトイレの順番待ちをしている気分で待っているが、状況はゆっくりとしか動かないだろうね。
それでも、知能開発にひっかからない小さなホビー用ロボットはこれから盛んになりそうだし、ロボットの現状や問題点などを「見続けて」、それを報告したいと思っている。それがこの「通りすがりのロボットウォッチャー」である。なんちゃって。
人生とは通りすがりであり、通りすがりとは人生だ。ロボットさがしの旅にでかけたい。ロボットを見続けることの引退はできない。まだまだ現役続行を宣言しておこう(笑)。
2006/07/28 00:01
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