通りすがりのロボットウォッチャー

家をロボット化するには

Reported by 米田 裕

 朝、機械の手によって無理やり起こされる。

 ベッドはそのままスルスルと壁に吸い込まれ、床の上のカーペットがクルクルと巻き取られて自動的に掃除される。

 起こされた人は、ねぼけ眼のまま洗面台の前へとイスに座ったまま移動させられる。

 ロボットハンドが現れ、歯磨きペーストのチューブと歯ブラシを持ち上げる。ペーストは思いっきりしぼり出され、顔中になすりつけられる。そこへブラシが振り下ろされ、顔全面に動いてクシュクシャな状態になる。

 顔面にザッと水が掛けられて顔が洗われ、ロボットハンドの持つタオルでぞんざいに拭かれる。

 そのまま、キッチンのテーブルへと移動すると、真っ黒に焦げたトーストがトースターから飛び出して人に当たり、チューブから絞り出されたバターやらジャムやらでテーブルの上はめちゃくちゃになる。

 その昔、茶化すように表現された未来社会の生活のようすだ。なんでも自動化されているが、自動化された機械は故障を起こしたときにはメチャクチャになるというお笑いの一コマだ。

 家庭内の自動機械が夢物語だった時代には、こうした揶揄的な表現がかなり多かった。

自動機械も進化はしたが

 昔、機械はまともに動かないものという意識があったと思われる。洗濯機はゴトゴトと歩き出し、電気釜はご飯を焦げ付かせていたりしたし、冷蔵庫は内部の食品を凍らせていた。

 たぶん制御機構が現在よりも素朴だったというか、機械的なものが多かったせいだと思う。

 現在では自動家電に対しての不安感は少ない。これは、マイコンの搭載によるものだろう。

 最初に登場した洗濯機は、手で洗濯物を入れて、絞りはローラーを手回しして水分をとっていた。それに脱水機が付き、洗濯から脱水をひとつの槽でこなす全自動となり、さらには乾燥機能も付いたのが現在の姿だ。

 冷蔵庫も、いつの間にか霜取りのことを気にしなくなり、自動製氷が付いたり、付加機能も増えた。

 家庭用の食器洗い機も登場し、家事の手間は驚くほど減っている。

 家電の自動化は進み、掃除機にはロボット掃除機も登場している。

 だが、ちゃんと自動的に動くためには、家電にもセンサーや、プログラムを実行する頭脳が必要だった。

 人の仕事量を減らし、人を楽にするものとして家電製品は発達してきたわけだが、そうした流れはロボットに引き継がれていきそうだ。

 人がロボットを欲しいと思わせるには、やはり何か役に立つもの。それによって人が楽をできるものといった要素は必要になってくると思う。

 だが、ロボットはなかなか進歩しない。ロボットがお手伝いさんのように家庭に入ってくるよりも、家電製品の自動化や、家そのものが自動化し、それがロボットであるという発想が出てくるのも当然だろう。

 だけど、家がロボットと聞くと、つい冒頭に書いたドタバタな光景を思い出してしまうのだ。

 自動機械では越えられない壁というのがあるように思える。ロボットと聞いてイメージするものとの差は大きい。

 1970年の日本万国博覧会では、未来の風呂として、人間洗濯機といったものが展示されていた。それから39年後の現在は立派な未来といえるが、家庭内に人間洗濯機はない。

 全自動で湯張りから温度管理までする風呂はあるが、人の身体を機械で洗う風呂は登場してない。

人は信頼で身を預ける

 人は「人を物として」扱われることには抵抗があるのではないだろうか?

 その昔、病院へ見舞いへ行ったときに見た光景だが、なにかの病気で身体が不自由になったお年寄りが入院していた。

 紙おむつを当てられて、ベッドに横たわっているわけだが、意識ははっきりとしているためか、トイレへ行きたいと訴えていた。

 病院側としては、動けない患者なので、紙おむつを付けているわけだが、当人はベッド上で用を足してしまうのは屈辱的なのだろう。大声で看護師さんを呼んでいた。

 だが、紙おむつをしているので看護師さんはやってこない。

 人というのは、排泄をする生き物なのだが、その排泄をする場所がトイレといった場所でなくなると、いきなり人間の尊厳にかかわってくる。

 街中で突然漏らしてしまえば、どのような人であろうと他人の見る目が変わってしまう。いきなり人以下、動物と同じレベルで見られてしまうのだ。

 だから、紙おむつの中へ用を足してしまうことを激しく拒絶しているわけだが、とうとうその瞬間がやってきてしまった。

 当人にとっては自分が人では無くなった瞬間だろう。

 こんなときに、ベッドが変形して自律して動くロボットになるとしたら、どんな機能が必要になるだろうか?

 まずは寝たきりの人を乗せて、自律的に移動することが必要だ。そしてトイレへ着いたときには人を便座に座らせる必要がある。

 そうした機能をトイレ側に持たせるか、ベッド側に持たせるかだが、トイレ側に持たせるとなると、病院内のいたるところにロボット的な機能を持った設備があり、それらが連携して動く必要が出てくる。

 病院自体が巨大なロボットとなっていくことが求められるだろう。

 人がロボットというものをイメージしたときには、それはただの自動機械ではない。自立した別個の存在として、人のパートナーとして存在しているものと考えるのだろう。

 だから、ベッドから移動し、トイレへ行き、用を足し、後始末をしてくれることを、見た目が機械であるものによって行なわれれば、人は自分を「物」と感じるのではないだろうか。

 ロボットが人間のアシスタントをするということなら、やはり看護師さんが指揮をして、ロボットたちがアシストする形でないといけない。

 だが、問題は人手不足だ。看護師さんたちの業務が忙しくなってしまうのを解消するための自動化が必要なのだが、根本的な問題は、看護師さんの人数が不足していることにある。

 まわりの雑務をロボットが担当するといっても、対人の部分をロボットにまかせられないのなら状況は変わらない。

 となると、やはり人型のロボットが必要になってくると思う。そしてきちんとコミュニケーションをとって人間との信頼関係を作ることが重要だ。信頼関係のない機械には自分の身をまかせられないと感じるだろう。

 こうした人型ロボットがいない限り、ロボット化した病院はただの機械の集まりであり、イメージ的には冒頭に書いた描写のように「何をされるかわからない」と感じるだろう。

 そして、人型ロボットは親しみやすいものとし、知性も重要な要素となってくる。ただ人間のように動きますといったレベルでは信頼されない。

知能と知性は創れるだろうか

 現在、ロボット開発がひと頃のように進まなくなっているのには、知能、知性といった部分が大きな壁になっているのだと思う。

 ただの自動機械では、乗り越えられない壁があるのだ。

 人間のアシスタントといっても、機械は道具にはなってもアシスタントにはならない。

 いいアシスタントは命令されなくても動く。なにかを指示されてから動くようでは「使えねぇヤローだ!」と、徒弟制度ならば親方に叱られてしまう。

 現在の状況を把握し、何が必要なのかを考え、自分で行動するとなると、これは知性の問題だ。

 この知性を満足のいくように創れないために、ロボット開発は先へ進めなくなっている。

 しかし、すぐにでも世の中に登場して、利益をあげてくれるものでなければ、開発することもできない。

 こうしたことから、人が使う道具に自律的要素をという発想になっていくのだろうが、それでは、いつまでも自動機械であることに変わりはない。

 物語の中では電子頭脳が開発されれば、知能や知性、意識、心の問題は解決されてしまうが、電子頭脳は計算機から生まれるのかどうかわからない。

 日本ではこの先、高齢化社会が待っている。高齢者にとって、アシスタントとしての機械も重要だが、もっと切実に欲しいものは「話し相手」ではないだろうか。

 たとえ動くことはできなくても、力持ちでなくても、人の気持ちを推しはかることのできる知能型のロボットを開発しておいた方がいいように思える。

 まわり道となっても、いつかは必要とされる時がやってくるだろう。機械からロボットへと進化するには、避けては通れない要素だ。

人と機械のインターフェイスとしてのロボット

 人の気持ちを推しはかることのできる知能を持つロボットができたときに、新しい光景が見えてくる。

 誰もこないような山奥で、文明の進歩にも世の中の騒動にも関心がなく、日がな一日縁側に座り、傍らにいるちょこんとした小さなロボットを相手に話をする老婆の姿を思い浮かべてほしい。

 ロボットは縁側に腰を掛け、脚をぶらぶらとさせている。ロボットが何かを話し返すと、老婆は聞いて笑っている。そして、小さなロボットの頭をなでる。

 ある日、老婆が家の中で倒れた。小さなロボットは町の病院へ連絡し、すぐに救急車がやってきた。

 小さなロボットは、状況を説明し、最近の体調などの基礎データを救急チームへと転送をする。

 老婆は病院へ運ばれ、小さなロボットもついていった。

 病院での小さなロボットは、他の看護ロボットや介護設備とネットワーク接続し、自動機械たちを使いこなし、老婆の世話をし、話し相手となった。

 やがて老婆は亡くなった。小さなロボットはひととおりの葬儀をすませ、落ち着いたころに記憶域にある言葉をつむぎ、1人の女性の物語を綴り始めた。

 そして、その物語をネット上にアップロードすると、小さなロボットは山奥の朽ちかけた家に戻り、縁側に座り、四季の流れを受け止め、脚をぶらぶらとさせながら、自らの電源が無くなるまで庭を眺めていた。

 こうした光景を実現させるには、やはりロボットに人型はかかせない。家全体をロボット化したときにも、インターフェイスとしての人型ロボットは必要になると思うなぁ。


米田 裕(よねだ ゆたか)
イラストライター。'57年川崎市生。'82年、小松左京総監督映画『さよならジュピター』にかかわったのをきっかけにSFイラストレーターとなる。その後ライター、編集業も兼務し、ROBODEX2000、2002オフィシャルガイドブックにも執筆。現在は専門学校講師も務める。日本SF作家クラブ会員




2009/10/30 00:00