通りすがりのロボットウォッチャー

ロボットが服を着るとき

Reported by 米田 裕

 ロボットが服を着るということはどうなのだろう?

 少なくとも現在のところ、人間が服を着るのと同じ理由はなさそうだ。

 人は、保温、体温調節、身を守るため、恥ずかしさから服を着ると思う。ところがロボットでは、服を着ることによって排熱がさまたげられたり、可動部分に制約ができ、動作に支障が出ることも考えられる。

 現在のロボットは、内部に骨格にあたるフレームがあり、アクチュエーターやそれらをつなぐケーブル類、基板などの内部機構があり、それを外装でおおっている。

 すでに外側で内部を隠している状態だ。その上に布で作った服を着せるとなると、今のところ機能的な意味はない。

 それでも何か着せたくなるのが人間の思い込みというか心情というか、そんな気持ちがいろいろなものに服を着させてしまうのだろう。

 本来、服など着ていない動物にさえ、服を着せたりする。言葉をはなせない動物にとって、それが楽しいのか快適なのかは言葉にしてはくれない。

 ロボットも同じように、自分の感覚を言葉にはしてくれない。

きれいなべべ着たお人形さん

 人形は言葉をはなさない。意志表示もない。子供は人形の代弁をするかのように、自分の頭のなかのストーリーを演じさせて遊ぶ。

 まだまだロボットは、大きな「お人形さん」といった感覚なのだろう。

 動けば楽しい。見て面白い。

 となれば、おひな様人形を愛でるように、お茶くみ人形が、内部にからくりを隠し持っていても、外観は着物姿であるように、ロボットにも服を着せたくなるのが人情というものだろう。

 かといって、やみくもにロボットに服を着せればいいというものではない。それにふさわしい舞台が必要だ。

 服を見せる場所となればファッションショーということになる。店頭で展示するならマネキンで十分だが、舞台で服を見せるとなると、モデルに着てもらいたい。

 そのモデルがロボットならどーだ!?

 となったかどうかわからないが、今月22日に、産総研のHRP-4Cに服を着せてファッションショーで歩かせてしまった。

 HRP-4Cはご存じのとおり、女性型をめざしてリアルな頭部と手を持つロボットだ。ほっそりとしたボディや足首は、いままでのロボットとは一線を画す構造らしい。

 かといって生物学的には女性でもないし、感情や心は持っていない。

名前があると親しみも増す

 さて、そのHRP-4Cには、ファッションショーにあわせて「未夢(みーむ)」という名前が与えられた。物みな、名前がつくと愛着がわくというから、HRP-4Cは人々にとって、とても愛着のわく存在となったわけだ。

 余談だが「みーむ」と聞くと、進化生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱した社会的遺伝子「ミーム」を思い出してしまう。

 ミームとは、人の脳から脳へと伝わる文化は、文化自体が自己複製子、つまり遺伝子となって伝達されることを説明するときにできた言葉だ。

 流行は多くの人がマネをすることで引き起こされる。マネをするには口コミや、視覚的にカッコイイと他人に思わせる何かが必要だ。

 その何かがミームなんである。

 そのミームと関係あるのかどうかは知らないが、ロボットの活躍する「未」来を「夢」見てとのことで、「未夢」とのことだが、ネーミングセンスが「来夢来灯」みたいな感じだなぁ。どこかのパブかレストランかと思ってしまった(笑)。

 さて、みなに愛でてもらうロボットにふさわしい服といえば、これはもうウェディングドレスしかない。

服と歩行制御の関係は?

 ウェディングドレスといえば女性の夢の服装だ。それを着るのは、いままで赤の他人といっしょに生活していくことをお披露目する日だ。ロボットにとってもいつかは人間と共生していくのは夢だろう。そうした夢を形にしているがファッションデザイナーの桂由美氏ということになる。

 実際に会場にいたわけでもなく、テレビのニュース映像やネットの動画で見たわけだが、服をロボットに着せる、しかもドレスのようにスカートが大きくふくらんでいると、動作にも外因要素が加わって、制御がむずかしいのかなと思った。

 ロボットの花嫁はゆっくりゆっくり、身体をふりながら歩いているが、倒れないように懸命に制御しているように見えた。

 二足歩行ロボットができるようになったのは、歩行制御のプログラムによるところが大きい。

 そのプログラムでは、身体の各部は不用意に動かないものとして考えていると思う。

 外力の伝わりとフィードバックによる制御で、不確かに加わる力があると、演算に不確定要素が増えそうだ。

 「未夢」の着ていたドレスは約2kgとのこと。その半分以上がスカートの自重だとすると、加速重力や慣性を考えると、けっこうな重さのものが、歩行のタイミングとずれて身体にかかってくる。

 制御して反発するときに遅れて加重なんてことになっていたかもしれない。

 だからか、安全のためにはゆっくり動くという解決策になっていた。

 そう考えると、人間はどんな服を着ても変わらずに歩行することができる。宇宙服や潜水服をのぞいてだけどね。

 長いコートを着たから転びやすくなるということもないだろう。

 人のバランス感覚、歩行の制御、そして、身体という限られた容積から発生する力は、まだまだロボットにはむずかしいものだと、服を着せただけで気づかせてくれる。

ロボットが人に近づけばハダカではいられない

 遠い将来、ロボットがモーターで動くことがなくなり、人工の骨格に人工の筋肉で動くようになるかもしれない。

 より人の構造に近づいていくことが予測されるのだが、そうした未来のロボットは、もともとのロボットの姿に近づいていくともいえる。

 ロボットの名付け親、カレル・チャペックのロボットは人工生命体で、有機的な身体を持っているとされている。

 その後、20世紀には機械と科学文明の世の中となり、機械の身体を持ったロボットが登場した。

 ロボットといえば鋼鉄の身体や、機械の身体というイメージができているが、それは未来へと続くひとつの段階にしかすぎないとおもうのだ。

 日本でロボットのイメージに大きな影響を与えたのは、マンガ家の手塚治虫氏であるといえるだろう。

 その手塚マンガのロボットは服を着ていた。『メトロポリス』の「ミッチィ」もそうだし、ポピュラーとなった『鉄腕アトム』に登場する人型ロボットの大半は服を着ている。

 手塚氏の「アトム」はマンガ的な絵だが、それをリアルにリメイクした浦沢直樹氏の『プルートウ』を読むと、服を着ているロボットは人と変わらないように見える。

 しかし、浦沢版「アトム」はフード付きのパーカーを着ているが、そのままで空を飛ぶ。パーカーのフードが空気をはらみ、大きな抵抗となるか、それとも風圧で裂けてしまうのではないかと思うが、そのいずれでもない。

 現実では、自転車で走っているときにフード付きのウィンドブレーカーを着ていて、向かい風でフードが風を受け、それだけで首に負荷がかかったり、後ろへ戻されそうになるのがいやだが、そうした力はマンガの中では働かないようだ。

 そうしたことは手塚版では感じなかったが、浦沢版では感じてしまった。同じことを描いていても、よりリアルな画風によって気づかされたことだ。

 たぶん、未来世界ではロボットも服を着ていることの方が重要になっていくだろう。

 ロボットが人に近づき、人の外観と変わらなくなっていけば、やはりハダカでいることはまずくなっていくと思うからだ。

 ロボット自体の問題というよりも、人間社会のルールをロボットにも適用しないといけなくなると思う。

 リアルに人間そっくりのボディがハダカでは外を歩けない。人間社会のルールが壊れてしまう。となると、ロボットにも服が必要になっていくわけだ。

 ただ、その時代のロボットにとって、服が機能的に必要なものなのかはわからないが、人間とロボットが社会で共存していくには、ロボットにも服を着せることになるのだろう。

 そう考えると、ロボットという機械に服を着せた今回のファッションショーは、はるかな未来へのマイルストーンだったのではないかと思うのだ。


米田 裕(よねだ ゆたか)
イラストライター。'57年川崎市生。'82年、小松左京総監督映画『さよならジュピター』にかかわったのをきっかけにSFイラストレーターとなる。その後ライター、編集業も兼務し、ROBODEX2000、2002オフィシャルガイドブックにも執筆。現在は専門学校講師も務める。日本SF作家クラブ会員




2009/7/31 13:18